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日々の破片

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著作一覧

2018-06-02

_ 類推と弁証法

ルネドーマルの類推の山を読んでいるのだが滅法おもしろい。

20世紀前半期の作品で、一応シュルレアリスムの系譜に属するらしいが古典SFの類と考えた方が良いかも知れない。

山岳ライター(なんだかよくわからない)の主人公が寄稿した文章に対して、謎の男から激烈な手紙が届く。本人、何気なく書いた想像上の山の話だったのに、その手紙によれば実在するから一緒に登ろうという内容だ。

訳が分からなくて会いに行くと、器用貧乏を絵にかいたようなマッドサイエンティストで、地上にはまだ知られていないエベレスト(今の言葉でチョモランマ)ですら足元にも及ばない山がそびえているから、登らなければならないと誘われる。

なぜなら、それは類推から導かれるのだ。

おもしろそうだと思いながらも帰宅した主人公は、(そんな阿呆な話はないよなというニュアンスを多分に交えて)妻にその話をする。と、妻は当然、登らなければならない、と言い出す。

あれよあれよというまに言語学者、山岳画家、科学者と形而上学者の兄弟なんかを集めて冒険隊が結成されて、南太平洋の地図に無い島へ向かうことになる。なぜ、そんな高い山が聳え立つ島が地図にないかというと、光の屈折によるものだとか、もっともらしい説明が入る(ところが、古典SFっぽい)。

誘ったヘーゲル主義者のイタリアの靴職人は弁証法によって、その山が存在しないことを証明したらしき超長文の手紙で断りを入れてくる。

なんか、無茶苦茶におもしろい。

が、はて、類推とは? と気になった。

原題を見ると、Le Mont Analogueで、確かに類推の山としか訳しようがない。

(この字面をみて、あらためてデジタル・アナログのアナログが類推語源と知って、ちょっと驚き、ではデジタルとはと調べたらdoigt(指)で測る、軽量するという意味だった)。

それで、あらためて類推ってなんだ? と考えてみる。

類推は射影で、あるものAとあるものBが似ていることから、Aから得られるaと同じくBから得られるbがあると考えることだ。

したがって、発見のためのメソドロジーで、哲学の領域だ(と、今、初めて意識した)。

フランス革命について考えてみる。王様は~する権利がある。おれは第3身分なので~する権利がない。でも待てよ。王様とおれは同じ人間だ。当然おれにも~する権利がある。革命だ、権利を寄越せ。

この哲学の欠陥は、発展性に欠けるところだ。何かモデルがないと真に新しいものは生まれてこない。

音楽では、ロンドが相当する。スクリアビンがソナタ形式を捨てた後の作品について、高橋悠治が、ビルの窓から次々に顔が出てくるのでおもしろいことはおもしろいが、全部同じ顔だ、みたいなことを書いていたのを思い出す。それが類推だ。

演繹は類推の特化したものと考えられる。なるほど、フランス的だな。

途中で降りるイタリア人の靴職人の弁証法はそれとは異なる考え方をする。弁証法は当然、高校生のころに学んだので良く知っている。類推とは異なり、相違点に着目し、その解決を考える。

王様は~する権利がある。おれは第3身分なので~する権利がない。同じ人間なのにこれは矛盾だ。したがって革命しなければならない。

ベートーヴェンが生み出したロマン派のソナタ形式は、クラシックのソナタ形式と類似ではあるが相当違う。中間部で徹底的に荒れ狂うからだ。そのため、再現部はすでに提示部とは全く異なる様相となる。

これは弁証法に近い。確かにドイツ風だ。

と、考えると帰納はまったく異次元的だ。まさに非ヨーロッパならではだなぁ。自由意志ありきだ。(この後、なぜゴドウィンが最初なのかとか、libertyとfreedomの2つの概念から自由が構成されるのに対して、ヨーロッパにはliberteしかないのか、といった方向に考えが進む)

類推の山 (河出文庫)(ルネ ドーマル/Ren´e Daumal/巌谷 国士)


2018-06-03

_ 新国立劇場のフィデリオ

5/27は新国立劇場のフィデリオ(カタリーナに敬意を表して記録は6/2の千秋楽後にした)。

飯守監督がすさまじく力を入れていたので楽しみに観に行く。とはいえ、フィデリオなんだよなぁ。CDで最後まで聞きとおした試しがないので、結局よくわからないまま行くことになった。

で、演出がカタリーナ・ワーグナーなのだが、新国立劇場だし、適当に無難なところでお茶を濁すのではないかと想像していた。

実際、幕が開くと、3階建ての牢獄で、最上階が1階、中が地下牢、最下層が普通の牢獄という不思議な構造なのはともかく、それほど目立つところもなく、始まる。

が、実は厨坊カタリーナの面目が躍如しまくっているとはこの時点では気づかなかった。

で、囚人の合唱は確かに名曲だなー、なんか所長はナチっぽい制服だなぁとか観ていたのだが、確かに曲は退屈だ。正確には、個々の楽曲はベートーヴェンだし、オーケストレーションもベートヴェンだし、モチーフはちゃんと展開するのだが、紙芝居のように、はい次、はい次と切り替わっていくだけで、つまりドラマツルギーが欠如しているとしか思えない。

なるほど、これは退屈だ。

2幕になるとますます退屈になるのだが、グールドが出てきた瞬間に景色が変わった。第一声が恐るべき轟音で、すべての退屈さが吹き飛んだ。なんてやつだ。

物語は看守(妻屋、良い)とレオノーレ(メルベート、悪いはずもない)が所長(ラデツキー、良いと思う)がフロレスタン(が、グールド)を暗殺したらすぐに埋められるように、穴を掘ることになっているのだが、二人は階段のところでもたもたしていて、代わりにほとんど飯も与えられずに2年も暗黒の中に閉じ込められているのだからとっくに佝僂病になっているか、護良親王のように足が動かなくなっているはずのフロレスタンが這うようにして穴を掘る。まあ、ふつう、死刑囚に穴を掘らせるものだから、正しい演出とは言えるなぁと観ている。

ラッパが響き渡る。機械仕掛けの神ドンフェルナンドが登場するのだが、こいつもファシストの制服を着ていて、かつ所長と和やかに話すではないか。

さて、地下に所長が降りてくる。まず私を殺せと立ちふさがるレオノーレ。

所長は悠然と、フロレスタンにナイフを突き立てる。くたばるフロレスタン。呆然とするレオノーレ。

所長は、(演出的に意図がありそうな人物の画なのだが、判別できなかった)を覆い、布を手にする。

戻って、レオノーレを縊り殺す。

ジークフリートはハーゲンの手にかかり、ブリュンヒルデも自己犠牲して果てる。

すべては丸くおさまる。

ギヴィッヒの郎党が人間として自立するのだ。

おお、まさに厨坊演出。王様は裸だ! と叫ぶ子供だ。これがレアリスムだ。まあまあ。いずれにしても、まったく退屈しなかった。目を離すことができない舞台。素晴らしい。

が、音楽はここからが長い。

長い音楽を地下牢のベンチに腰かけて茶飲み話をするかのように、生者の世界を眺める夫婦。

新国立劇場では珍しくカーテンコールでブーブー豚が鳴くが、カタリーナはこの場にはいない。愉快ですな。

指揮も、歌手も、演出も、オーケストラも良かった。音楽は美しいし立派でもあった。

実におもしろかった。

(絵描きなら、ここの場所に「ひいじいさんの落とし前は私がつける」と首括りの布を手にしごいているカタリーナのイラストを配置する)


2018-06-06

_ サンドリヨン

東劇でメロライブビューイングのサンドリヨン。

これでマスネはマノンウェルテルに続いて3作を劇場版で観たことになる。

・最初ウェルテルを思い出せなかった。

始まると妙に繊細な音楽でメロディーがあまりなく、不可思議な印象を持つ。

振り付けは妙にぴょこぴょこしていて現実感がない(お伽噺だからだろう)。とはいえ、父親とサンドリヨンの2人は比較的リアリティがある。

父親の娘がかわいそうだという歌が白々しいような真剣なような違和感でどう受け取るべきなのか? と疑問を持っているうちに終わってしまう。

妖精の女王のキムが出てきて(なるほど、ほとんど出ずっぱりの良い役だ)技巧を凝らした歌を歌うのだが、やはり音楽の奇妙さを変わらない。

極端に舞台奥を狭めることで遠近感を狂わした舞台装置のため、椅子に座る王子が小人のように見える。孤独感を示しているのかな。

ネズミはサンドリヨンと同じ風体。

宮廷の官僚たちの動きが奇抜過ぎて笑えない。

違和感を持ったたまま幕間。(各2場の2幕構成か、1幕30分程度の4幕構成のどちらか)

幕間インタビューでビリーが、マスネといえばマノンとウェルテルだ。サンドリヨンは1899年の作品でこれら2作のあとに作られた。コメディだ。ベルディは最後にファルスタッフを作った、と語る。

なるほど、時代(ほとんど20世紀)と隣国の偉大なオペラ作家から多大な影響を受けたのだろうと考える。

もう1つビリーが言っていたのでなるほどと思ったのは、(少なくとも幕間前までは)すべての歌が途中で終わってしまい、すぐに別の心情を歌う違う登場人物となるという点。とはいっても紙芝居というわけではなく、明らかに何か客が感情移入しないで遠目に舞台を観られるようにわざと仕組んでいるように思える。リアリズムを排しているのだ。

2幕、サンドリヨンを探す王子と一人で家を出たサンドリヨン(母と姉妹から、王子が謎の女のことを怒っていたと吹き込まれたからだ)が妖精の女王が作ったお互いを見えなくする壁によって、互いの偽りのない心情を知り、世にも美しい2重唱を歌う。なーんだ、マスネはマスネだった。すばらしいメロディメイカーだ。が、オーケストレーションはあくまでも薄く、バイオリンのソロを多用して甘美な味わいを作り出しすぎる。

サンドリヨンが家を出る前、妻と姉妹を叱り飛ばした父親が美しい歌を歌う。野心のために娘を犠牲にした。二人で森の奥の家に帰ろう。

(なんか先週観たルイザミラーみたいな展開だ)

が、結局、サンドリヨンは一人で抜け出したのだった。

場面転換後、最初ビリーが両手素手で指揮を始める。???と思いながら観ているとカメラがオーケストラに切り替わり、戻ってくるといつもの指揮棒を持つビリーになっている。なんだったのだろう。

最後、当然のように靴になる(その前にすべては夢おちだったのかと嘆きまくる長い父と娘の歌が入る。サンドリヨンは川岸に倒れているところを父親に見つけられて、どうやら森の奥の家に戻ったらしい)。

母と姉妹の声がして、どうやら王子が靴の履きてを探しているらしきこと、病膏肓に入り死にかけていることがわかる。妖精さん出てきて! とサンドリヨンが叫び場面転換して王宮となる。チキンドレスなどが出て来るが、サンドリヨンが出てくるまでもそれなりに長い。出てくると、前の幕の終わりで大切にしまった片方の靴は全然利用されることなく、履いて終わる。

最後の最後に母親が出てきて、自慢の娘ですわ! と掌を返す。伯爵家の面目が躍如すれば結果良しということなのだろう。

父親が、お伽噺は終わった。といっておしまい。

・作曲前に道化師を観て、最近の若者はこういう作劇するのか、ではおれも真似してみるか、と考えたのではなかろうかとか思う。

すごく、微妙な作品だなぁと思うが、見えない壁が取り払われたあとの美しさは信じがたい。

サンドリヨンはディドナート、王子はクート、メゾメゾデュエットというのはすごいものだ。


2018-06-09

_ 犬ヶ島

友人に誘われて、六本木のTOHOシネマズで犬ヶ島。

チケットを予約しようとしたら人形アニメで驚いた。なんで、こんなのを誘ったのか?

が、始まるや度肝を抜かれる。

3人組の太鼓もものすごいが、すべてが普通じゃない。

20年後の日本が舞台だが、はるか昔に犬を守るために少年武士に首を斬られた小林家の子孫が犬を抹殺しようとしている。

日本人は日本語で話し、犬は英語で話す。が、主人公の小林アタリの日本語がおかしい(と思ったらカナダ人で、多分、日本語を話すのはこの映画が最初ではなかろうか)。

あらゆるイメージがすべて歪んでいる。

真っ黒な野良犬(チーフ)が常に反抗的な態度。アタリと犬が行軍を開始すると7人の侍。チーフって菊千代か?

が、仕掛けがたくさん。なんだこれ?

オノヨーコがパートナーを暗殺された悲しさで酒に溺れている。

唐突に滑り台をしようとするアタリ。

すべてがピタゴラマシンのようであり、左から右への横スクロールゲームのようであり、おもしろい。

無茶苦茶だがちゃんと筋が通っていて、すべてのシーンが目を離させない。次に何が起きるか予測させても裏切る。

説明をするときは説明し、そうでなければ唐突に進める。

この作家はまともじゃない。なんというか、ティムバートンをさらに尖らせて本物の映画作家にしたような圧倒的な才能だ。あるいはデプレシャンの時代感覚を狂わせてさらに先鋭化したような才能、カラックスから俗に走っている部分をフィルタリングしてから目隠ししてぐるぐる回してふらついている状態で撮らせたような作風とも思える。

つまり、この30年くらい観た作家の中で最も才能がある作家だ。驚いた。


2018-06-10

_ 葉山でムナーリ

子供が葉山でムナーリを観ようというので、葉山まで行く。

ムナーリとは懐かしい。

中学生のころ、武満徹が大好きな友人がいて、彼から借りたレコードにムナーリバイムナーリが入っていて、なんときれいな楽譜を描くひとなんだ、と印象的過ぎて忘れることができないからだ。

武満徹: ミニアチュール第3集 / 打楽器のための作品集(武満 徹(1930-1996))

もしかしたら、その後、クレヨンハウスかなにかで絵本も見たかも知れないが、僕にとってのムナーリはなんといってもコンポジションの素晴らしさにある。

というわけで、楽しみで楽しみでしょうがなくなく葉山へ向かう。

まず、入れ物の中身が立派で驚く。

村上知義の大作があるが、それだけではない。そもそも収蔵作品がえらく構成が良い作品ばかりだ(ムナーリ展の前に、常設展から触りと新規購入作品展が2部屋ほどであったのだ)。

それにしても固有名詞をまったく覚えられなくなったな。もとから収蔵している作品から新規購入作品で午前3時という題から、おそらくエロティックアートらしき、しかしそう読む必要もまったくない作品群まで、おそろしくバランスが良い作品が占めている。

おもしろさでは、1本の軸に対して4つの枝が生えていて、一見ランダムに動く作品は抜群だった。おそらく軸が微妙に回転することで、枝を動かしているようなのだが、すばらしくおもしろい。

・ムナーリ展についてはあとで書く。圧倒的な構成力と色彩感覚。赤い正方形はすべてが正方形だが、黒い正方形は欠けているのでいまいち。使えない機械という発想。未来派時代に額縁を作品の延長に組み込む。角丸のキャンバス。切り取られたキャンバス。木。スタンプ、スライド、コピー(未来派っぽい動きの再現)。テクノロジーを使うことで、子供だろうが素人だろうが、すぐに芸術を始められる。参加する芸術のための技術。


2018-06-14

_ 世界の誕生日

アーシュラ K ル グィンが死んだが、考えてみれば、読んだことなかったので何か読んでみるかと聞いてみたら、とりいさんからゲド戦記か闇の左手、とお勧めされた。

ゲド戦記はジブリので観たからパスと言ったら、ばかもの別物じゃと言われたけど、そうは言ってもどうせならまったく知らないほうが良いので、闇の左手を読もうとしたら、まだKindle化されていない。

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))(アーシュラ・K・ル・グィン/Ursula K. Le Guin/小尾 芙佐)

紙の本は岩波文庫の場所しかないので、こうなったらなんでもいいやと見てみたら、唯一『世界の誕生日』だけがKindle化されていたので買った。読んだ。えらく時間がかかった。

おもしろかったかといえば、少なくともワンダーというよりも異物感というか猛烈な居心地の悪さというかがすさまじくあった。あり過ぎて読むのに時間がかかりまくったのかも知れない。

というか、ニュートラルな固有名詞(人名、地名、種族名、都市名、事象名、事物名、星名、なんでもかんでもだ)がばんばか出てくるのに、Kindleだと確か20ページほど前に出てきたような気がするが、あそこではどういう印象を主人公は持ったっけ? とか紙の本なら数秒でわかることが永遠にわからない(検索すりゃいいじゃんというのはでたらめだな。検索が0.1秒でできるのらともかく、手順が多すぎて、思考の流れが完全に切断されてしまって話にならない)のでいちいち暗記しながら読まなければならないのが大問題だったようだ。

やっぱり現在のテクノロジーでは、紙に対する印刷が最強だと完膚なきまでに思い知ったが、それはそれこれはこれ。

という、読書スタイルを確立するまでの作品はしたがってあまり印象がないというか、どちらかというとろくな印象がない。

・愛がケメルを迎えしとき(1995年、読んでいる間は発表念を気にしていなかった、今、記録として掘り起こしている)

事象を次々と忘れながら読んでいたため、全然記憶にない。えらく退屈だったような。

・セグリの事情(1994年)

少し読み方がわかってきたのだが、異様にヘヴィーな作品で死ぬかと思った。

・求めぬ愛(1994年)

慣れた。さらに異様にヘヴィーな作品で死んだ。

・山のしきたり(1996年)

求めぬ愛の世界の続きなので楽しめた。が、さらに異様にヘヴィーな作品で生き返った。が、これは一連の作品の中でも新しいだけに、骨格以外の肉付けがある(そこが物語性となって読みやすくなっている)のだなと今、年代を入れて気づいた。

・孤独(1994年)

おもしろい。が、異様にヘヴィーな作品でまた死んだ。

・古い音楽と女奴隷たち(1994年)

おもしろい。クッツェーの夷狄を待ちながらみたいだなと思いながら読んだ。辺境におかれた文明人が内乱に巻き込まれて文明性を完膚なきまでに抜き取られても残る意志、政治と人間の対立、冒険、そういった要素に共通点があるからだ。という意味において、20世紀末期の文学に通底する問題意識を掘り当てたので純粋に楽しめたのだと思う。(作家の腕前が上がった可能性も高いと思ったが、年代を見るとそうでもない。扱うテーマの違いによるものかも知れない)

夷狄を待ちながら (集英社文庫)(J・M・クッツェー/土岐 恒二)

・世界の誕生日(2000年)

引き続き、呪術的文学作品。抜群におもしろい。というか、作家の腕前は明らかに上がっているだろう(年代的にも正しい可能性がある)。

・失われた楽園(2001年)

見事なSF(スペキュラティブなだけではなく、味付け的にも、という意味で、他の作品もすべてスペキュラティブではある)作品。おもしろい。

世界の誕生日 (ハヤカワ文庫SF)(アーシュラ K ル グィン/小尾 芙佐)

前半の作品群を読んでいて想起しているのは、クッツエーではなく沼正三で、異様なまでにセクシュアル(社会学以前に生物学的特徴が最重要視されているのでジェンダーではない)な物語群なのだが、片や倒錯した理想郷(なので好みは別としてエロティックである)、片や突き放した(まさに異星人の目による)単なる叙述(なのでセクシュアルではあるが、これっぽっちもエロティックではない)と、同じような世界を描いてもこうまでも違うのかという興味深さもあるが、それよりもなによりも、読んでいて感じるのはとんでもない違和感で、もしかすると、それは強制される異物感かも知れない。と考えるとワンダー以外のなにものでもない。構築力といい説得力といい大した作家だ。想像なのだが、ここでおれが得た異物感が日常というのがジェンダーなのだろう。

・1970年代初頭くらいの知識ではセクシュアリティを主題にしたSFというのはファーマーくらいしかいない(そもそも子供用ジャンルなので、主題にしないという不文律があったのをファーマーが打破した)ということだったのが(実際には60年代後半からSFがジャンル小説から文学の領域に入ったので、そんなことはなく、10年遅れの知識だったわけだが)、どえらく進化して深化したことそれ自体がワンダーだ。

恋人たち (ハヤカワ文庫 SF 378)(フィリップ・ホセ・ファーマー/伊藤 典夫)


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